ペンション・モーツァルト日記

山中湖畔・平野の森の入り口にある“ペンション・モーツァルト”の日記です。

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星の香り




アルキオネ☆さま
      ↑
お名前の後についてます【☆】!、なんの星かご存じですか?

なに気なくつけれられたのやしれません、でも人が為す‘なに気なく’には、すべて人知れず深いわけがあります。
心を澄まし、その‘何気なく’の小道を分け入ると、いつしか思いもかけない美しさに生きづくものと出会うことがあるでしょう。

神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、‘人は自らの心の中に湧き起こる感情の小道をたどり、その森の奥深く分け入ることで、超感覚的認識に至る’と云いました。

それは、私たちがあたりまえに享受している、この人というありようやそれを包む世界は、人の思いを遙かに超えて深く大きく、人はその全容を手でつかみ、王のように振るまうわけにはいきません。

しかし、人が世界(宇宙)という豊穣な大地から芽生えて、今ここに天を仰ぐ一輪の花として咲いているなら、その花の放つ香気とも云える感動や感情は、必ずやその大地の滋養の一滴を含むはずだ、とのシュタイナーのヴィジョンによります。

私達の命は、自分の命といえど人は創れず、それが存するためにはこの地球上に初めて脈打つものが生まれてこの方、37億年の生命史の由来を持ちます。

その由来を作り導くイデー(ことわり)を花から根へと、そしてそのその生まれ故郷の豊穣な大地へと、自由な想像力を羽ばたかせ訪ねれば、そこはあまたの神話の薫香の満ちる邦となり、いつしか私達のもその邦の住人となっていることでしょう。

そして、私達は皆ひそかに知っています。
‘私は、人という着物を着ている、人であらざる何者かではないのか’と!
シュタイナーは、その何ものかへ至る道を教えたのですね。



    膨大な砕氷を噴出する土星の月 エンセラダス




その☆は、夢の中に出てくるような、たとえば七夕の織り姫【ベガ】です。
全天一美しい輝きを放つ恒星で、よく‘宇宙のダイヤモンド’と言われます。

ベガはそのあまりの美しさゆえ、もはや人は目で見ることはできません。
魂を開き、胸の芯で、その命の燃える場でしか受け止められないでしょう。。。

そして、寄せ返す波のごとく訪れるあまたの夜に、人が星との逢瀬を重ねるうちに、いつしかそれは胸に住み着き、宿星として人が生まれ持ちきた使命を果たすべく、その人生を導きます。
人にはそれぞれ、このように胸のなかのポラリスとなる星があるのでしょうね。

人がなに気なく夜空を仰ぐうちに、何か語りかけてくるように思える星と出会うことが、いつかきっとあるでしょう。
そして夜空を見上げる毎にその星を捜すようになり、その輝きを味わうようになります。

そして、いつかはその光りに包まれるだけでなく、夜気のしじまの中に、その星の香りを聞くことにきっとなるでしょう。

香りはその中に、人の心をとらえてやまぬ高いイデーを宿しています。
そしてそのイデーこそが、人が探し求めていた、命の生まれと共に携えてきた使命を教えるものなのですね。

宇宙はただ物理だけでできているのではありません。
一つの生きものとして生きており、その命の流れゆく行き先を見つめる目を持っています。

そして、見ることのかなわぬ物達に成り代わり、見ることができ、その目の見つめる先を想うことのできる人に、この小さき身一つをもって、宇宙の瞳となる使命を託したのだろうと思います。

この事に、宇宙が137億年の営みの果てに、人を生み出した意志を感じます。



カッシーニが捉えた土星による皆既日食のダイヤモンドリング出現の奇跡的瞬間




私どものフォトアルバムにはたくさんの宇宙の写真があり、その一つ一つ美しいものですが、その場で行われていることは人の物差しでは測りきれない壮大なものです。

その現場に、もしこの地球が紛れ込めば、一瞬にして木っ端微塵になるぐらいの巨大なエネルギーの爆裂している場もあります。

しかし、今ここに人も生き、ミクロの命も共に生きてあるように、マクロもミクロもその中に働く最後の原理は同じです。

何千億個の星達を飲み込むブラックホールや、大銀河を瞬時に破壊したほどの超新星爆発!、

そんな巨大なエネルギーを司る原理が、野の小さな花一つにも降りてきて、そを生かしめる、その計り知れない優しさに、無垢なるジャスティス(正義)を感じます。

そしてその原理は、ジャスティス(正義)であるが故に、一点の汚れも濁りもなく、まるで澄みきった水がそこに水があることを教えないように、私達が知らなくても人の命の底を支えます。

大きなものにも、小さいものにも分け隔てなく与えられる、この力に自ずから備わる叡智の深い海の底から、絶えず水泡が昇りつづけ、人の意識のみなも(水面)に《美しい!》という水紋を幾重にも描きます。

美しい!という感動の小道をたどった先にあるものの大きさを想わしめられますね。

星を見ながら、その光りの水を掬うと、手の中に天から降りてきた、その力の精でもあるかのような、澄んだきれいな珠が載せられるようにいつも想います。

そして、その珠を見つめているうちに、

‘アア、この珠から命はやって来たのだ、137億年の時をかけて!’

との思いがこみ上げてきます。
その遥かな大きな旅を思うと、誰しも命を私物だとは思えなくなるでしょう。

そして、私の中に命があるのではなく、むしろこの壮大な時を掛けて創られた命のなかに私があるのだと、思わざるを得ません。

それは砂漠の民ベドウィンが、何千年と、ただの一度も消すことなく燃える火を伝えていくように、命あるものから、命与えられるものへと、この脈動する宇宙を生かしめる血ともいえる時の手に守られて、途絶えることなく伝えられていく宇宙の宝ものなのです。



.        母船との命綱を切り、ただひとり宇宙に浮かぶ。眼下に浮かぶ我が地球、地球よ、おまえは私のすべて!


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水素原子の遙かな旅

皆様、こんばんは。

いつも、美しいコメントをくださって、ありがとうございます。

春の宵、皆様が空を見上げますと大きな北斗七星がご覧になれます。
その北斗七星の柄のカーブをそのまま右の方へ延ばしていきますと、春の主星:赤金の見事な輝きのうしかい座のアルクトゥールス、さらには乙女座の真珠星:スピカに至る《春の大曲線》をご覧になれます。

実はこのあたりは《宇宙の窓》と云われ、この天の川銀河外の宇宙のあまたの銀河をご覧になれる場所です。
大きな望遠鏡で見ていきますと、その一つ一つはリルケの歌ったように『光りの道の向こうの端の白い都』そのままで、その目を見張る壮麗な未知の都を一つ一つ訪ね歩いてみたい衝動に駆られます。

最近、NASAの打ち上げたたくさんの探査宇宙船や世界の大天文台の高能力な望遠鏡が目を見張るような精細な宇宙の姿を伝えてくれます。
どの一枚も、火傷をしそうな目の当たりにその現場で壮大な宇宙のドラマを見せられてる気になります。
私たちの心臓が一瞬たりとも鼓動を止めないように、大きな宇宙も一つの切実な生き物のように脈動しているのだと、胸が小さな子供のように熱くなります。
そして、これらの星の写真を眺めていますと、それらの輝く光りの海の潮騒が壮麗なシンフォニーを奏でているように聞こえてきます。



08-3-12 星の形成域、LH 95




‘宇宙の美しいシンフォニー’、ほんとうにそうですね。
私たちはその演奏を最後まで聴くことはできませんが、この宇宙が終生を貫く秘めたる意志を持って何事かを成就せんとする思いを、この今の中に感じたいものです。

私たちは宇宙の中に居てとても小さいので、大きな宇宙の思いを知ることなどできないように思います。
でも、私たちの身体の中でそれぞれの細胞が、胃酸を出す細胞は胃酸を出し、肝臓の血を洗う細胞はそれを為し、みな己が役を為しながら、それらすべてが集まれば人が歌うことが成就するように、小さな私や星やこの宇宙のすべてのものが為すことを為せば、いつかはそれが思いもかけない美しいことを成就することつながるのだと思いたいですね。

ところで、フォトアルバムの多くの写真は、この宇宙のとてつもない場を捉えたものです。
それらは、地球など一瞬のうちに破壊するような激烈なエネルギーが氾濫しています。

数千億個の太陽を瞬時に破壊したような超新星爆発、膨大な数の星々を巻き込んだ大銀河同士の激突、すべてを飲み込み融解するブラック-ホールなど、なぜおまえ達はそんなことをしているの?、っておもわず聞きたくなるほどです。
しかし、それらの写真を見ても、人は美しいと思ってしまいます、なぜなのでしょう…

この美しいという、また楽しいという感動は、人が思う前に私たちの中の人知れぬ深い水底から湧き起こり、水泡が私たちの明るい意識の水面に水紋を描くように自ずと起こります。

それは、私の中にありながら私が作ったものでない命が自ずと生み出すもので、きっと命は私よりも自らと同じ生地で編まれた世界のことをより深く知っており、その由来に関わることに共鳴りし、その身を振るわせ妙珠となり私の私の元に届けられるからなのでしょう。

私たちがここにいて、小鳥が歌い、花が咲く、これらが営まれる地球もその力を与える太陽も、その生まれる前にはあの激越な場を経なければなければなりませんでした。
野の花一つ咲く場の時の地層を深く訪ねれば、そこには壮大な宇宙の激動の営みがあり、野の花一つはその産みの成果なのだと云うことを教えるでしょう。

宇宙の137億年かけた進化の最先端、その矢の切っ先の今、私がこの文を書いています。
宇宙自身が人という宇宙を見、思うものを生み出したからには、その大河の流れ行く先をきっと私たちの命は知っているのでしょう。
そして、私たちの心に美しいという花を開いて、その花の香気の中に宇宙の意志を感じさせるのだと思います。
そして私たちはその香華の中に身を深め、ただ聞くばかりです。



08-3-22  キャッツ・アイ星雲:ハッブル再調整画像





流れるモーツァルトの幻想曲ニ短調…
モーツァルトはどの一小節を聞いても、聞いたとたん‘あっ、モーツァルト!’って、思わせられます。
ピアノのドの音一音にも、そう感じることがあります。

私たちは、宇宙が奏でるシンフォニーをすべて聴き終わることはできません。
しかし、今というドの音を聞いたとたん、その果てしなく広がる響きの中に自らがあることの真実と誇りに守られて、この宇宙への信頼の虹を永遠・無限の彼方に架けることができます。

それこそ、宮沢賢治が歌った『われら、まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう 』という宇宙へ、そして生み出された人間存在への讃歌であり、アヴェ・マリア ですね。




皆様に星を見る楽しみに触れていただけます、素晴らしいソフトをご紹介させていただきます。
どうぞお楽しみ下さい。


*  【 Google Earth 】

  もうどなたもがご存じの有名な地球探検ソフト?に { S k y } ボタンがついて、宇宙探検が手軽にで  きるようになりました。

・ インストール版

http://earth.google.co.jp/download-earth.html

・ Web 版 { Sky } をインターネット上で自由に使えます。

http://www.google.com/intl/ja/sky/


* 【 Celestia 】  

  Google Sky を高機能に、宇宙船に乗って自由自在に宇宙空間を旅する気になります。
  ただ旅行範囲は少し狭いですが、低スペックのパソコンでも軽く動いてくれます。

http://download.forest.impress.co.jp/pub/win/c/celest

日本語化はこちらから、インストールに際し、おわかりにならないことがございましたら、お問い合せ下さい。

http://celestia.aqsp.net/repository/japanesefiles.zip


* 【 MITAKA 】
  
  国立天文台(三鷹)がつくった、地球から宇宙の大規模構造まで自由に移動できる本格的な
  4次元デジタル 宇宙シミレーションソフト、高スペックのパソコン向きです。

http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/



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サハラ砂漠紀行 ⅩⅢ  ‘イニシエーションの旅’

‘ 漂泊の思いやまず ’‘日々旅にして、 旅を栖とす ’

この芭蕉の言葉に習い、リュックの中は隠しもできぬ命一つで、赤道地帯を放浪した日々は、いまや私の中で、過日の栄華に満ちた黄金の季節となり、時に熟成されたその芳醇な香りに包まれるたびに、不思議な望郷の念に駆られます。

砂漠

命がおおらかに息づく赤道の旅では、人はこんなところにも住むものかと思うほど、あらゆる場に人の暮らしがありました。
そこにつつましく生きる人々は、太古以来の風土の、山や川や森と同じ不可欠な点景として風景にすっかり溶け込んでいました。

もう日本では、とうに失われてしまった、昔ながらの変わることなく繰り返される素朴な暮らしが、栄えある神々の豊かな神話や伝説に守られ、大自然と共に生きる叡智から生まれ出た風習とともに、今もこの同じ時代に営まれています。

人々が伝える美しくもまた不思議な様々の風習の中でも、とりわけ私に強烈な印象を与えたのは、若者が部族の大人の世界に迎え入れられるための通過儀礼(イニシエーション)の風習でした。

ネイティブアメリカンのある部族の若者は、弓矢と火をおこすヤジリだけを携え、荒野に3ヶ月たった一人で生きのびねばなりません。
その試練の始まりの日から、村人総出で迎える聖地での成就の暁の日まで、彼の心の中には、どのようなドラマが起承転結するのでしょう?
荒野における彼の心の旅路の果てに生まれる明星に、思いを馳せざるを得ませんでした。

民族の文化や伝統の何千年にわたる不文律が、このイニシエーションの試練を通じて、一人の若者の生身の命に刻みこまれます。
命の火が手わたしで世代を伝えられていくように、心の灯となる古代の叡智が命から命へと伝えられていく有り様を観て、人は日常の時に重ねて、時を貫く、曼荼羅のように壮麗な神話的領域をも生きるものなのだということを、私は知りました。

それは、雪解けの大地を穿ち、初めての太陽のまぶしさの中で、すっくと双葉を開く野の草たちのように、地の万物が億万年絶えることなく、宇宙のまっただ中で歌う生命讃歌の隊列に連なるものでした。

地球のあらゆる地で民族の未来を託するためになされる、この白刃の門をくぐるようなイニシエーションの厳しい試練が、まさに彼らを作りあげたのです。その試練の旅路の果てに生まれたであろう輝きは、いったい彼らに何を伝えたのでしょうか。若き釈迦もイエスも荒野を彷徨されたのち、暁の明星を観て道を開かれたといわれています。

私の生地四国では、山野の荒行の最後の場を求められた空海が、太平洋の荒波が穿った洞窟で、曙に先立ち水平線より昇る明けの星の眩いばかりの妙光に射られて、悟りを開かれたと伝えられています。

この茫漠たる闇のただ中に突如出現する一点の光りは、この宇宙の中で、物質と反物質が出会ったとき、互いの‘対消滅’により誕生するという‘光り’の本性そのままに、人がアッ!と息をのむその瞬間、オセロの黒を白に反転させ、実在を支配する時系列を断ち、因果律のくびきを放ち、人の心を虚数のようなある永遠性で満たすのでしょうか。
そのとき、白昼の空虚のような人の心のスクリーンは、何を写しているのでしょう。

美しいチュニジニアンブルーの地中海に面した古代カルタゴの遺跡から始まった砂漠の旅は、私には思いもかけず、このようなイニシエーションを体験する心の旅路となりました。

思えば、あまたの旅はこのような体験するために、人を呼ぶのでしょう。
更には人生そのものも、日々その門をくぐる旅なのでしょうか、遠くサハラに発したこの道は、私の中では今も終らず、目前には地平線の彼方まで更なる道が続いています。

さえぎるもの何一つない360度の地平線という場を、私たちは持ちません。サハラ砂漠を初めて訪れた者を最初に襲うのは、その前には自らを消失してしまいそうにさえ思えるほどの圧倒的な砂漠の存在感です。

この天地の巨大さのまえには、私たちの慣れ親しむ、いかにも人の身の丈にあった手頃な空間意識は、完全に壊れてしまいます。
このような日常感覚を断ち切る場では、その喪失と共に‘私’をも、まるで服でも脱ぐかのように失って、もはや身を守るもの一つ無く、生命そのものでしかなくなります。

しかも、この生命は自からの手によるものでなく、気が付けば既にここにあり、なぜ宇宙の一点、今ここにあるのかを答えることもできません。
そのとき人は、その場においても、また自らの命の中でさえエトランジェとなり、寄る辺を失う恐怖を招くのではないでしょうか。

しかし、この恐怖の底を見据えることこそが、イニシエーションの第一の試練となりました。


    …‥‥・つづく・‥‥…

サハラ砂漠紀行 ⅩⅡ  二重螺旋の秘密

昔むかし、あるところ…、サハラに渡るために、南イタリアの名も知れない小さな村を訪れた時のことです。とても不思議な事に出会いました。

もう、一日もいれば、その村の家の数さえ数えられそうな小さな村でした。すみれ色の夕靄に包まれて、ニセアカシヤやミモザの花の香りが一日の安息を人々に与える頃です。異邦の地の独り身ゆえに人恋しさがつのります。宿の主人に尋ねると、人の集まるにぎやかなところがあるといのです。

エニシダの垣根が続く小高い丘を降りていくと、時まさに眼下の地中海のチュニジアンブルーのみなもが落日に、かのヘルダーリンが歌ったアポロンの古代金に染め上げられていました。

‘アァ!あの黄金のさざ波うつネプチューンの王衣の向こうに憧れの地があるのだ’とそのまぶしさに目がくらみました。金色に発光する海の彼方から、たしかにカルタゴの海を埋め尽くす大船団と共に偉大なサハラの風が吹いてきました。

サハラの薫りに我を失い時を忘れたしばしのち、黄金海が夕闇のなかに過日の栄えのごとく消えゆくと共にその幻も消え去り、行く手に一つ二つほの暗い明りが見えてきました。生い茂った木々の枝のシルエットの向こうがほの明るく、かすかに人の気配が漂います。

小さな丸い広場でした。数十人の人がいるようでした。しかし実に奇妙な集まりです。人々が輪になって歩くでもなく歩いています、しかも二重に。内側の輪の人は時計回りに、外側の輪の人は反対回りに、一言二言の挨拶が、水紋がみなもを伝わるように廻っています。

それは、まったく理解できない光景でした。
古代バラモン僧が永遠のために捧げる、千年止むことのない勤行のようでした。人々は一人一人出会う毎に、軽く会釈するのですが、挨拶の言葉は聞き取れぬほど秘めやかです。まるで、口から出た言葉が相手をその勢いで壊しかねないのを危ぶむごとくなのです。そして、輪はただ回りつづけます。

彼らは、一体なにをしているのか、盆踊りでもなく…。人ごとながら、結末のない劇を見ているようで、わけもなく焦燥感がつのります。

しかし、やがて夜が更けると共に私は感じてきたのです、夜の闇が、果実が色づくように色づき熟れた香りを放ちはじめるのを。目に見えなくとも、その場は潮の高まるように何かの熱気を孕みつつありました。

人一人がそこに在る時、私たちはただたたずむ人をも幻とは思わず、確かにそこにいると感じます。それは、目に見えず耳に聞こえなくとも、人の内なる脈うつ力を、自らが在るのを汲むのと同じ器で、両手で清水を汲むように、汲み取るからではないでしょうか。彼らは見つめ合うことで、互いにその力を汲み取り合い、与え合ってていたのです。

まるで、遺伝子の二重螺旋が、共に手を取り合い、回りながら昇化していくように!それを為す人には、もはや言葉はいらず、ただ瞳と瞳を結ぶだけでよかったのです。


人が大きな窓から、その朝(あした)初めての富士を見ます。その時、見る人はどなたも、見たとは言わないでしょう。ただ見ただけなら、寝ぼけた夢幻も見るのです。それは、今まさに人と富士が‘出会った’としか言いようのないなにものかです。

そして、瞳から瞳へ流れるように富士の存在が放つエネルギーをいただく事になるでしょう。私たちはその力にに共振し、命が高まるのを感じます。

たぶん、私たちはそのような共振関係で、人や世界と結ばれ、また結びかえすのではないでしょうか。南イタリアの小村の村人達は、何千年何万年そのようにして、互いの生きてることを言祝いでいたのです。



     …‥‥・つづく・‥‥…

サハラ砂漠紀行 ⅩⅠ  ‘ サハラの風 '

赤や黄や黒の原色、 金やスズや銀、 太陽やカルタゴの海、永遠なるものへの憧れを秘めたチュニジニアンブルー、そして黄土色や赤茶けた大地…。

異国を訪れ、一番始めにその異文化の鮮烈な洗礼を受けるのは、その風土に特有の色彩です。初めて訪れたアラブは、まずは大地と空の色からして、私の常識を壊しました(笑)。そして、ここが大砂漠の重力に支配される地であることをあらためて私に教えたのです。

この信号機の赤と青がひっくり返るぐらい色の文法が異なるアラブの街で、不用意に目を開くことは、壊れた万華鏡を無理に覗かせられたような支離滅裂な印象にめまいをおぼえるほどでした。

しかし、この私達の許容の域をはるかに超え、熱を帯びてあふれかえるアラブの色彩の魔力に幻惑され、いつしかそれを愛するようになるのに、そう時はかからなかったのです。

“旧約”の悠久の時代から漏れてくる、時にあせた没薬や乳香の香り…

人を蠱惑するブロンズ色のなめらかな肌から薫る香油…

アラブの男どもの太鼓腹をつくる秘薬めいた食物のスパイスや炒られた油の匂い、ラクダの獣臭や羊肉臭…

ひからびた大地にしみこんだ計り知れない量の血と汗の匂い…

甘く爛熟した熱帯の夜にむせかえる花の香り…

そしてそれら全ての上を超越し、吹き抜ける大砂漠サハラの存在を教える風。

私は、この偉大なる香りにあらがう術もなく引きつけられ、おののきながらも至高の地サハラを目指して、魂の本能の命ずるまま一歩一歩、心の中の階段を登っていきました。

大サハラの頭部を飾る花飾りのように点在するこれらアラブの世界は、五感を刺激する全てのものが大気の熱にあぶられ、エロスとタナトスが織りなす七つのベールを舞うサロメのあらわな美しい臍が、喧噪と混沌の渦の中を、すべての耳目を引きつけながら奈落の底に落ちていくように“タブラ”( 魂の恍惚 )の大鍋に落っこちて、ごった煮されているようなものでした。

しかし、時まさしくモスクの天を指さす美しいミナレット(尖塔)から、祈りを呼びかける‘アザーン’の声が響きわたり、クルアーン(コーラン)の祈りの読唱が永遠に続くかのようなアラベスクの尾を引きながら大気に溶けて町を覆うと、それまで四方八方ハチの巣を突いたような喧噪で、町全体がうるさい大いびきをかいてるような騒ぎは、巨大なアラブのランプに吸い取られ、万の群衆がうごめき、ざわめくスーク(バザール)もなにも辺り一面を深い聖なる静寂が包みます。

目の前の同じ町が、瞬時のちに魔法のようにこの世のものとは思えぬものに変わりました。

曙の礼拝(ナンと、丑三つ時を少し過ぎた3時から4時過ぎ!アラブを旅する人の悩みの種です、笑)から夜の礼拝へ、一日5回の「アッラーヘアクベル」(神は偉大なり)の言葉と共に、立ち、ひざまづき、両手を前に頭を深く拝する祈りの姿は、彼等の魂の中で白鳩が天に向けて登り続け、光りの中に溶け、やがてそれが慈雨となり彼らに降り注ぐ、まるで‘メビウスの輪’のような美しい出来事を私に見せました。

この人々の祈りの思いが異邦人の私の肌を包み、つい先程までのむせかえるような熱気さえ、モスクのファサードを飾る神秘的なアイスブルーのタイルのような涼やかな冷気に変わり、共にこの身を包むのでした。

この聖と俗の融通無碍こそがアラブの神髄であり、それは国土の大半を征する大砂漠が人の決して手なづけることの出来ぬ、人を遥かに凌駕する存在として磁場のごとく、町をそして人々の心を畏敬の念で秘かに治めていることの証しでありました。

それはまるで白昼夢を見ているかのようなマジカルな光景でした。


  …‥‥・つづく・‥‥…

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